植芝盛平2008-07-24 Thu 19:31
伝説の武道家3 植芝盛平〜合気道〜
和歌山県生まれ。起倒流柔術、柳生心眼流柔術、大東流合気柔術などを学び「合気道の開 祖」と呼ばれる達人。 ![]() 戦後も海外に出向き、晩年まで合気道の指導と普及に身を捧げた。日本武道会で「不世出 の天才」「達人」と謳われた養神館の塩田剛三の師でもある。 1883年(明治16年)、和歌山県田辺市の農家に生まれた。 田辺中学校(現・和歌山県立田辺中学校・高等学校)を中退し、税務署勤務を経て、文房具卸売り業を開業。その傍ら起倒流柔術・神陰流剣術を学ぶ。その後兵役につき、日露戦争に従軍。その間柳生心眼流柔術の中井正勝の道場に通い免許を受ける。兵役を終えた後は、北海道紋別郡白滝村(現遠軽町)の原野に開拓農民として移住し開拓村で農業を指導、その一方で大東流合気柔術の武田惣角を北海道へ招いて合気柔術を習った。 1917年に父親の危篤の報を聞き帰郷した後、宗教団体大本に入信し京都の綾部に移住。1919年に綾部で「植芝塾」道場を開設。1922年頃から出口王仁三郎の命名により、自らの武術を「合気武道」と呼称し、井上鑑昭と共に、大本の内外の人に教授していた。 1924年2月、当時大病を患っていた井上鑑昭に代わり、出口王仁三郎警護の為、ともに出国し、モンゴル地方へ行き、盧占魁(ろせんかい 馬賊の頭領)とともに活動し、6月にはパインタラにて張作霖による危機をのがれ、7月に帰国した。 1926年に招かれて上京し、大日本帝国海軍の浅野正恭海軍中将、竹下勇海軍大将などの軍人や財界の関係者に、井上鑑昭と共に「合気武道」を指導。 第二次大本教弾圧事件を契機に「大本」及び「合気武道」をはなれ、独自に「皇武会」を発足し距離をおいた。その後、変転を経て1931年には東京都新宿区若松町に道場「皇武館」を発足。1940年には「財団法人皇武会」(初代会長竹下勇)として厚生省より認可を受け、1948年2月9日には「合気会」と改称された。 (一方の「合気武道」はその後、井上鑑昭が範主となって教授を続けた。) 戦後も海外に自ら出向くなど、晩年まで合気道の指導・普及に身を捧げた。 神道に熱心で、南方熊楠の神社合祀策反対運動に共鳴し、晩年に茨城県岩間町(現・笠間市)に合気神社を建立した。 1969年(昭和44年) 逝去。生地田辺市の高山寺がその墓所となった。 逝去後は、植芝吉祥丸が二代目道主を継承した。 文章はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用 |
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